以下は上海事変を扱った故・亀井文夫監督によるドキュメンタリー映画「上海」に関する、監督自身の著述(岩波新書より)の抜粋・引用である。(-部分は中略)
東宝にはリベラリズムの伝統があった。-
有名なプロデューサーの森岩雄は、与謝野晶子の「君しにたまうことなかれ」の精神で育った人だから、「専門的な政治家は、汚職や疑獄で国に被害を与えるが、軍人はもっとひどい被害を与える。彼らに政治を渡してはいけない」といっていた。
「上海」の企画を持ち込んできたのは弁士あがりの松井翠声だった。
実写で戦争を伝える当時のニュース映画が、どれもこれも景気のいい場面だけを撮影して、たとえば城門の上で日の丸を振りながら「万歳!万歳!」と叫ぶ兵隊を見せるようなものが常識だったから、もっとじっくり見せて判断できるようなルポルタージュがぜひほしいと思ったのである。-
日本人の偏狭で排外的な民族主義ではなく、コスモポリタンというか、中国人の立場も考えた客観的な立場で実現したかった。だからといって日本を憎むわけでは勿論ない。日本の兵隊も当然あたたかく見守る。しかし中国の民衆もあたたかく見つめる。場合によったら、草も虫も、そういう自然界のものをあたたかく見つめる。-
映画館内が、すすり泣きでいっぱいになり、「戦意昂揚」には、あまり役立たない映画だったらしい。
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亀井文夫…
1908年4月1日、福島県原町(現・南相馬市)生まれ。
1928年、文化学院美術科・中退。ソビエト(現ロシア)レニングラード映画技術専門学校聴講生。
1939年、第二次大戦中の監督作品「戰ふ兵隊」が国内上映禁止。
1941年 亀井監督「小林一茶」が、戦時映画法・認定制下で文部省から認定拒否される。
1941年、特高警察に、亀井監督のモンタージュ・暗喩が、唯物弁証法・反戦思想と受け取られ、
治安維持法違反容疑により逮捕・投獄。
1946年 戦後の監督作品「日本の悲劇」、GHQにより上映禁止処分。当事の吉田茂首相が激怒。
1987年2月27日没。