人が自在に時間を使えるのは、本格的に介護を背負うまでの一瞬の期間にすぎない。
抱える事態が、ここで書ける範囲を超えた。
私の個人作業可能の時期は事実上終わった。
あとは私が何歳まで生きられるか、という単純な問題にすぎない。
シンポの視聴は残された唯一の楽しみであり現実逃避だ。
人の一生とは実に短いものだと知っていたから、15歳から生き急いできたつもりだったが、それでも時間が足りないほど、実際に短いものであった。
崩壊し、連日放射能を流出し続ける原発を抱えながらも戦争への準備を怠らぬ稚拙な植民地・日本に、あとどれだけの時間、抗うことができるであろうか。
1月下旬よりデモや抗議に一切出られないのに、現在、仕事のノルマに耐えられているのは、訴えている問題が根底で一致しているためだ。これは52年たってはじめてめぐり合った、ほんのわずかな奇遇だ。
17歳の頃、哲学で社会を動かすのは困難と判断した私は、その活路を国内外の思想に求めた。しかし、その膨大な叡智でなぜ、人間の生命を守ることができないのか、私はこの数ヶ月間考え続けていた。これが実現しなければ、学問は単なる机上のお遊びにすぎなくなる。
私は一つの答えに再び到達した。それは、15歳に頃にすでに直感・実践してした、animationによる抵抗の有効性である。人生の短さを考えれば、途中、ツールや大資本、謀略経済などにだまされ、寄り道していた30~40歳代は(経験は力の一端になるとはいえ)かなり時間の無駄をしていた。
だがもう二度と、時間を無駄にする過ちは繰り返さない。だが、その確信は、目前の死の確認とほぼ同時期に訪れた。それが偶然か、必然かはまだわからない。